頭のこんがらがったモカ
思ったことや感じたことを綴ります
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デザインろくろく

IQをはかったことはありますか?
私はそういうのちょっと好きなんで少しやったことがあります。
ちなみに、さっきIQ-test.dkというところでやった図形テストだと130でした。
しかし、去年担当にあたった講師がいうには、あんなん全く信用できないとのこと。。
それでも高いといい気分がしたりしなかったり。

ところで、デザインの勉強がしたいなぁ。
今日ビレバンに行ったら、かなりの数の本があった。しかも値段が高い。
美術系の大学に行く程まではしたくないが、それでも、デザインとか構成の担当を受け持つ役になるので、もっと斬新な発想が欲しい。


いや、もっと言えば、膨大な知識にと発想性に裏付けされたものを創造したいのだー!


その点において、ちょっと異なるけど、現時点で菊地成孔は尊敬できる人物。
彼の博識ぶりと饒舌ぶりは尋常じゃない。ちょっとかじっただけの知識で述べられるものでは決してない。
だから、私もたくさん学んで、それを最大限アウトプットした表現をしたいのだ。

しかし、少しくらい余裕を持たないと、結局いいものが作れないと言うのは昔から言われていたりする。
100%の力で、80のアウトプットをするとか。

そもそも、どうして構成とか、そういう能力が欲しいかと言えば役割分担の末なんだけど、その着地点にはどういったものがあるのか、ちょっとわからない。

極論、俺は「認められたい」わけなんだが、もっと生活に即して考えると、彩りを与えたいとか、正しい認識を与えたいとか、そういうことじゃないかと思う。
でも、俺が世界に対してできることって、だいぶちっぽけなんじゃないかなぁと思ってしまう。
現時点で、東大生程度とも並べるほどに頭が良い訳でもないし。超えなきゃならないとも思ってるけど。
従って、その為に必要なことをしっかり考えて、それを遂行していかなくてはいけない。

それは、なんだろう。

多分だけど、もっと具体的に特化するスキルを洗い出す必要があるんだと思う。
単純に、IQがちょっと高いだけでは無価値だ。使ってこその頭だ。
誰でもとっかかりは出来そうで、しかし容易には到達し得ないものがいいんだけどなー。
以上、駄文でした。


文章のちから

文章の能力を向上させたい。
動機は単純に、今私に求められる力がそれだからだ。

その経緯はさておき、どうしたら文章が上手に書けるようになるのだろう。
それにはいくらかの要因があると思える。

そもそも、日本人が全て日本語をマスター級に使いこなせているのだろうか。
とんでもない。
日本語をきちんと使えている人間は意外と少ないのだ。

言語が流動的だからとか、決してそういった理由ではないと思う。
何か他に、日本語を習う上での阻害要因なんかが存在するはずだ。

阻害要因としてまず挙がるのは、英語教育だ。
英語の文法はみっちりやらせるくせに、国語授業での文法は結構荒いというか早く終わる気がするんだが、これ如何に。

第一に、日本に住んでいるし普段から使用しているんだから、必ず使えているはずだという安心感、というか慢心。
第二に、日本語の構造。

まずは一点目を掘り下げていく。
 日本語は、日本という国土でしか使われない言葉だ。∵日本は侵略されたことも、完全な侵略がなされたこともないからだ。ここで、「日本が出来たのは明治だ」、という愚にもつかない反論は無価値だ。なぜなら、一応の定義がなされる以前に存在自体がとっくに日本と読んで差し支えない実体を持っていたからである。もちろん、藩ごとで争いはあったが、それは関係ないことだ。日本と読んで差し支えない実体とは、文化であり、言語である。従って、私は最近読んだ本に感化されて、日本の来歴は吉本隆明らが言う縄文時代だと考えている。
 話がそれたが、ともかく、日本語はずっと使われ伝承されてきて今に至る。

・日本語なんか、日本に長い間住んでいるんだから使えて当たり前だ。
……その思考は一体どこから発生したのか。

・まわりの皆の言葉遣いと自分の言葉遣いの差異が見当たらないから。
……果たしてそれが根拠に成りうるのか。

当然の疑問として、本当の日本語って何ぞや、に至ると思う。
結論を言えば、そんなんわからん。
言語学やっている人間でもわかれるのに、俺にわかる訳が無い。

一応、メルクマールとして存在しているのは広辞苑あたりだろう。まぁ辞書なんだけど。
むしろ単語というより、敬語や漢文みたいな決まりごとを覚える必要があるんじゃないかと思う。結局ただしい日本語を問われる箇所なんてそんなもんだ。あとは、物書きとか。。

第二に、日本語の構造。
 あー、日本語が難しいってあれね。そうではない。日本語は確かにある一面で面倒かもしれないが、別の面ではアフリカの部族の言葉の方が遥かに難しいだろう。まぁそこまで言っちゃったらこれから書くこともあんまり意味を持てないだろうけど、ともかく。日本語の構造として厄介な点は、主語がいらない、ということ。
 授業では主語と述語がないと文は成り立たないと習っただろうが、それは英語の文法に関してであって、また英語の文法をとりあえず覚えさせるための方便であって、元来主語がいらないことがよくあった。原因は、敬語系である。へりくだった述語が出てきたら、主語が誰に向かってるかがすぐわかる。その区別の意味で敬語なんかは大事だったはずなのだ。これは漢文にも言えることだと思うので、もしかしたら中国も。。。?

無理矢理に要約すると、日本語の教育が不十分なのは、日本語の理解が出来ていなければならないはずの教師を含め、十分に日本語を理解している人が少ないためと言える。



ここで、ここまで読んで、もう日本語よくわからんと思った人がいると仮定しよう。

大丈夫、とりあえず助詞間違えなきゃなんとかそれらしくみえる!

その解説ではわざわざここで行うまでもないだろう。
探せばいくらでも沸いてくる。


ところで、以前ラジオのパーソナリティなどをやっている方の記事を書いたことがある。
形式としては、ちょっとした講義の内容をメモして、それを文章に起こして、というものだ。
その講義の中で、話し上手になるためにはどうしたらいいのかということを話していた。

答えはとても単純で、「たくさん話せば良い」。

一朝一夕で身につけられない技術は、積み重ねた経験がものを言うんだろうなぁと思った。


ところで、冒頭に書いたことを憶えているだろうか。

そう、文章がうまくなりたいのだ。

つまり、そう、私は今文章がうまくなりたいために、無理矢理に文章を書いている。
本当に無理矢理だから、あんまり頭に思い起こさず文字を叩いている。
そのため、支離滅裂な部分が多々ある。
しかしそれでも、書かなくちゃならないんだ。

文章力のために。


まいった、財布おとした
いや、もう、非常に参った。

もう、いや、財布落としてもーた。。

最後に財布をみてから5時間弱経ってるって、これはもう厳しいなぁ。。
もう情けなくて仕様がない。

まぁ財布を落としたこともさることながら、中身のカードや保険証の停止と再発行をしなければならんのが非常に面倒だ。。
特に保険証は父親に言わなければならないので、いやだー。
本当にいやだー、この情けなさは言い表せない。

まぁ、こう参ってばかりいても仕方ない、次だ!と切り替えようとする心と、社会のばかやろー自分のばかやろーと叫ばずには居られない、この葛藤が激しく内部で渦巻いている。

社会のばかやろーーーー!!!!
とりあえず社会に責任転嫁しとけば、まぁいいや。

後者はとりあえず果たしたので、公平に前者も扱う必要がある、私にはそういう義務があるのだ。


「次だ」の具体策として、まず、なぜ落としたかを省みて、その要因を排除していくべきだろう。


なぜ財布を落とすハメになったのか。とりあえず,普段財布をしまう場所からその危険性を洗い出す。

・一点目、財布を後ろのポケットに入れることが多々あった。
何か買ったあと、とりあえず後ろのポケットに入れておく。前のポケットじゃ入りづらいし、邪魔だし、手で持ってるのも嫌だから、消去法的に後ろのポケットに入れる。入れると財布の感触というか感覚は確かにわかるので、問題はないように思える。ただ、入れることに慣れ過ぎていると、その感覚がどっちでも良い様な、そんな気分になりかねない。或いは、後ろの感触が嫌で、とりあえずテーブルに置いておこう、といったフローでテーブルに置き忘れる危険がある。他にもバスのイスなど、ポケットから出しておくことって意外と多いかも。また、座った際に財布がぽとりと落ちてしまうことも考えられる。

・二点目、財布をカバンの外ポケットに入れることが多々あった。
カバンはパソコンが入るように、サラリーマンが飽きもせず持ってるタイプの型だ。主な荷物は二箇所の収納スペースがあって、一つはパソコンや書類などの平たいもの、もう一つは折りたたみ傘や飲み物などの立体感のあるものと区分けしている。そして、問題の第三の収納スペースは、カバンのサイドについている。他の二つと比較してだいぶ狭い。サイドにあり、狭い。それゆえ貴重品を入れることが多い。定期入れ、名刺入れ、カギ、そして財布。。今日はipod(一番大きいサイズ)もそこへいれていた。これだけ入れると、やや容量オーバーの感がある。つまり、今日の様な場合は、きちんとファスナーを閉めないと外へ飛び立つ確度もそこそこあるのだ。また、とりあえず入れておけば安心という印象も相まって、その管理が甘くなっていたかもしれない。


以上二点をちょっと書いてみた。他の事由を思いつきで書いてみよう。


・しまう場所を気分で変えていた。
財布をしまう場所を、後ろポケット、カバンの外側のポケット、と2つ挙げたが、他にもジャケットの内ポケットに入れたりいている。そんな優柔不断な私の行動のせいで、もしかしたら財布は迷子になってしまったのかもしれない。解決するには、入れる場所を場合によって固定するのが良いかもしれない。前述の3箇所ならば、ジャケットを着ている日は内ポケット、ジャケット着てないときはズボンの後ろポケット、カバンを持っている時はカバンの外側のところ。で、ここが極めて重要な点なのだが、優先順位を決めておかねば成らない。例えば、ジャケット着ててカバンも持っている日なんて、殆どと言っていい程に多い。ジャケット着てズボン穿いてない日なんて、ズボンを無くさないかスカートに目覚めない限りあり得ない。従って、ここで混乱して、というか適当にここでいいや、なーんてやってると、もうだめ、アウトー。私なら優先順位はこうする。

カバン>ジャケット>ズボン

リスクの面で言えば、一番危険な箇所はズボンだろう。その次がカバン。カバンはファスナーの閉め忘れがない限りかなり安全な筈だけど。。。。
邪魔にならない順番で考えたら、全く上の符号の様になるだろう。カバン、ジャケット、ズボンの順で邪魔にならない。

と、しまう場所に関して、もうある程度の方策まで辿り着いた気がする。


次に、財布自身のリスクを考えたい。

ところだが。

これ以上書くと不公平になるので、ここで辞め。
私はきまぐれな平等主義の面を持つのだ。



こわいこと

いま、私には怖いことがある。


それは、怠けることだ。



このブログをほとんど放置しておいて言うセリフではないが。。

だが、他のことを集中してやっていたので、まぁ良し。


私は、自分のペースがいまいち掴めない。
もしかしたら掴めていない気分でいようとしているだけかもしれないが、とにかく、やる気がある時とない時のスイッチがわからない。

何をしたらスイッチが切れて、何をしたらスイッチが入るのか。。。
それを最近なんとなく感じるとしたら、自分の部屋にいることだ。

自分の部屋は自分のテリトリーと言って良い。
著しく安心してしまうのだ。
従って、部屋の外に出ることがめんどくさくなり、更には外部と繋がることがめんどくさくなってくる。
かもしれない。

もう一つあるとするならば、ボーッとすることだ。
これは怠けることに直結するんだけれど、余りにボケーッとしてしまうと、もう恒常的に頭が働かなくなってしまう。
嫌いじゃないことだけに辛いことだが、でもやはり、ボーッとすることは仕事に差し障ってしまう。
ボーッとする時間があるなら、その間は活動的になるべきなのだろう。


私は今週末非常にやる気がある方だったので、数時間の睡眠以外、ずっとデザインを考えていた。
しかし、今日部屋に入ってちょっとゆっくりするとどうだろう。
みるみる面倒くささがこみ上げてきたような気分がする。

部屋の安心感や、娯楽の多さに基因するのだろうか。。。
非常に悩ましい。

やはり、仕事は適度に緊張感のある場所でする方が良い。
やる気のあるなしは、差異がめちゃくちゃ反映する死活問題なので、考えていかなくては。

ただ疑問に思うのは、数時間勉強したら、課題を終えたらあのお菓子を食べようという方法論。
とりあえず取り組む、というイントロには向いているかもしれないが、個人的には、それ自体に興味を持って取り組めるものでないと、あまり功を奏さないという意見を持っている。

まーた外れてしまったよ。
NHKの爆問学問をちらっと見て

NHKにちらっと変えてみたら、カンサンジュンの顔が映っていて、これはどうやら爆問学問という番組らしい。
テーマが「ニッポンとは何か」、という古典的なものだったが、少し興味が沸いたのでみていた。というのも、今読んでいる本がそっちの方向だから。

 覚えている箇所は、カンの日本が独立を求めていると言及してたこと。
日本という国が出来たのは明治期。そして日本が完全に独立していた時期は、軍部による支配が続いた1928〜45年だと言う。故に、その時期を反面教師として学ぶ必要がある、みたいなことを確かいってた(多分)。

これはこの番組の象徴的な箇所だと思うが、変だ。

太田が無学な為か或いはNHKの指向性の為か、アメリカを軸とした議論展開をしていた。
だが、一方で日本人古来の精神論に話が到達していた。
「日本人古来の」の日本とは、形式上の日本ではない。
両者の時代が間違っている。
日本的文化は、縄文時代やその辺りから脈々と続いてきた結果のはず。
それなら話の中に吉本などの名前を挙げて、理論を組み立てるべき。

視聴者の認知レベルに合わせたのか太田の知的レベルに合わせたかわからないが、結論として、あの番組の中身は余り無い。
しかし、今のテレビではあの程度の内容が限度かもしれない。
それが危機だということをなぜ気付けない。